純国産邦ロック保護日記

 小学生の頃に、僕のクラスでは1日600字日記という宿題を課されており当時の僕にはなかなか苦行のような課題だったのだが文系大学生に昇華した今からすると600字など雀の涙程度の文字数であり、逆に考えるとよくその程度の文字数で1日の喜怒哀楽を記録し提出できていたのだと感心する。冷静に考えればそれもボキャブラリー不足で感想が淡白になりやすい故ではあると理解しているがそれもまた自身の成長を感じられて感慨深い。

 

そんな小学生日記の頃から僕がこだわっているのが文章の書き出しである。

 

いかに読み手に興味を持たせられるかに比重を置いて文章を書くことを意識していた。起承転結などのフォーマットは文章を書くうえで存在するが敢えてそれを破壊した文章を書くのも一興、または真面目に構成を考えながらじっくり書くのも一興であった。

 

文章を書く事にそのような楽しみを自ら見出せたことが苦行のような宿題の中でも救いだった。今回の記事を執筆するにあたっても書き出しを迷った末にそんな思い出話を持ち出してみた次第である。

 

 本ブログは一応音楽に関することをメインにしてるのでこの勢いで少し無理やり「思い出」という観点から少し掘り下げていきたいと考える。

 

音楽を好んで聴く人間ではなくとも、少なからず人生に音楽は絡んでくるであろう。

特定の曲を聴くと誰かを連想させて嬉しくなったり、過去の思い出を引きずり出して物思いに耽ったりと音楽が記憶と絡みついた時ほどに自分の心理をかき乱される事はない。特に音楽をよく嗜み自分と向き合う事が多い感傷的な人間ほどそれらの状態に陥りやすいのではないだろうか。

 

僕もその人間に該当する一人である。

 

「人生の半分は19歳で終わる」

なんて言われるほどに10代の頃の記憶は新鮮味に溢れている。中学高校の思春期に聴いていた音楽は何歳になっても聴き続けるだろうし、聴き続けるのだろうなとちょうど19歳の僕も実感している。そんな僕が高校生の頃によく聴いていたバンドを紹介したい。

 

それがcinema staffである


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残響レコードでインディーズとして活動し、ポニーキャニオンでメジャーデビューしたバンドである。ゴリゴリのギターロックで純国産邦ロックバンドといった感じのバンドである。これは後ほどまた触れたいのだが今日の洋楽輸入型ロックバンド(個人的造語)を好んで聴く人にとっては純国産ロックはクラシック的な音楽に捉えられて敬遠されがちかもしれない。

 

cinema staffといえば「great escape」でアニメ進撃の巨人の主題歌に抜擢されているのが有名である。

 

great escapeは近頃の邦楽バンドが提供するアニメソングとは少し相対する部分がある。

そもそも進撃の巨人という作品が主要キャラクターを容赦無く殺していくことで有名であるようにキャッチーな音楽では主題歌を務めるのには不釣り合いなのである。そのような理由があるにしてもCinema staffはなかなかに世間へ媚びを売らなかった。

 

冒頭のギターリフから一気に持っていかれる雰囲気を醸し出しているThe 10年代国産ロックといった感じ。とはいえ疾走感があっても爽快感はない。ドラムの乱打がいい具合に掻き乱していたりヴォーカルのたまに入るファルセットが小気味悪さを出している。

 

似たようなテイストのアニソンでいえばTK from 凛として時雨の「unravel」があるが(音楽性は全くの別物)あっちは、unravelは知ってるけど凛として時雨を知らない人間が量産されているが為に嫌いである。

 

今回は個人的な思い出と関連付けた上でこれまたマスターベーション記事を執筆しているわけであり、高校時代の思い出としてcinema staffをピックアップしているわけであるが全曲の中で特に聴いて欲しい曲が「シャドウ」である。


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僕は当時、自転車とバスを日によって使い分けて学校へ登校していたわけであるが

たまたまバスで下校した際、バス停からすこし歩いたところにTUTAYAがあり頻繁にCDをあさっていた。(旧作10枚で1000円とかいうアホプライスが貧乏男子高校生には助かってた)

 

そんな何十枚も借りたCDの中で特に印象深いのがこの曲であった。

ボーカルガッツリ系の曲ではあるものの、やはりギターの主張も疎かにせずとても聞き心地のいい曲というイメージを持っている。しかし、実際に聴いてみると絶妙な不安定感も否めず雰囲気もミステリアスにも聞こえてくる。当時、僕はこの曲をゆっくり聞きたいがために一時期晴れていてもバス通学をしていた。

 

友達が「おすすめの曲を教えて欲しい」と言ってきた為にこの曲を紹介したらご丁寧に歌詞の解釈文が長々と返ってきたのも今では良い思い出である。

 

ここまでcinema staffについて少し書いてきて改めて思うが僕は残響レコード発アーティストが好きだ。

 

cinema staff残響レコード発ではあるが残響アーティストっぽくない気がしている。

 

どちらかと言えばロキノン系に近いのでは無いだろうか。僕は所謂ロキノン系と呼ばれるアーティストは軒並みスルーしてここまで来た身なので定義なども分からず目を瞑って頂きたい発言ではある。ロキノン系を詳細ガン無視の説明をするならばROCKIN'ON JAPANという雑誌にフューチャーされるアーティスト、突き詰めると

 

純国産邦ロック

 

だと考えている。雑誌云々に関わらずひたちなか市で毎年開催されている音楽フェスに出演したアーティスト的な扱いもされる。

 

少し話が逸れるが正直に言って僕はロキノン系という言葉が好きではない。そもそも前述したように雑誌やフェスで扱われたか否かで括られている為に音楽ジャンルではない。

しかし、音楽ジャンルではない言葉が最近ではさも当然かのように1つのまとまった勢力を指すものとして使用されている事に違和感を覚える。

 

そこにはロキノン系という言葉が利便性に優れているという点が1つ挙げられると思う。

 

雑誌かフェスのどちらか一方に出演すれば定義からするとそのアーティストはもうロキノン系である。会場端っこの小さなステージで出演しただけでロキノン系。

 

つまり、ロキノン系という言葉の包容力が凄まじいのである。そこまで気にしてこの言葉を使用する人間は極少数であるのは承知の上だが、ここまでロックシーンに定着した言葉となったのにはこのような扱いやすさ、とっつきやすが起因するのであろう。

 

話を戻そう。

勝手なイメージで話を進めるが

 

【00年代ロキノン系】

ASIAN KUNG-FU GENERATION

サンボマスター

ELLEGARDEN

BUMP OF CHICKEN

 

【10年代ロキノン系】

KANA-BOON

sumika

フレデリック

・[ALEXANDROS]

BLUE ENCOUNT

04 Limited Sazabys

 

正直個人の選出だと似通ったアーティスト達になってしまったがこんな感じではないか。cinema staffは10年代ロキノン系に似た香りがする。

 

実際はもっと幅広いジャンルのアーティストがロキノン系に含まれる。少し遡ればNUMBER GIRLゆらゆら帝国ロキノン系だ。この幅広さにも関わらずロキノン系と一括りにされるのに本当に納得いかない。

 

しかしロキノン系にもしっかり核のような共通点は薄まりつつも存在する。

 

ロッキンというのであるからロックを演奏するバンドかつ重すぎない音圧。爽やかさよりも汗臭さのようなところである。

 

僕はロキノン系という括り方が嫌いなだけでその中に括られたアーティスト達は別である。特にASIAN KUNG-FU GENERATIONELLEGARDEN等の00年代アーティスト達は大好物。

 

まさにこいつらが「国産邦ロック」として貫禄を持ち続けて欲しいアーティストである。

とは言いつつも、彼らが流行したのは文字通り00年代であり最近の若者からしたら男臭くてダサいという印象も少なからずあるだろう。

 

現在は電子音楽が主流だしいわゆるイケてる音楽なのだろうか。

僕自身も小学生の頃からボーカロイドの畑で育ってきた身ではあるために全くそれ自体を否定する気はない。むしろ好きかもしれない。YOASOBIや米津玄師の様なボカロP出身のアーティストが日本音楽界の第一線で日の目を浴びているのは喜ばしいことであり一般層の嗜む音楽がまた一段階広がったと捉えれば悪く無いのであろう。

 

2021年の8月のofficial髭男dismが新アルバム『Editorial』を発表した。

 

このアルバムはオープニングからがっつりエフェクトのアカペラ曲のEditorialである。

この時点で既に電子的であり世相的にぴったりの主張である。一昔前にSEKAI NO OWARIFukaseが彼の歌唱力に問題があったとはいえかなりの酷評であったのが記憶に新しい。

それがなんの違和感もなく受け入れられていることが時代の変遷として受け取流ことができる。アルバムの始まりは落ち着いている方が好きなこともありこの時点で僕の好感度も非常に高かった。

 

そもそも他曲も打ち込みと生音の絡みが醍醐味と言えるアルバムである。演者ではない身分なので推測の域を超えないがここのバランスは緻密な計算と試行錯誤が必要なのではないだろうか。バランスという面では髭男は卓越した存在だという認識をしており「Cry baby」は少なくとも5回か6回程は転調を繰り返すにも関わらず曲としてのまとまりや完成度にケチの付け所が無いのが凄い。

 

この辺りを含めて未聴の方は是非一聴していただきたい。

 

人の趣味趣向はまちまちであり他人が介入や強制するものではないことはもはや周知の事実であろう。しかし、「流行」という観点で物事を捉えるのであれば廃れが存在する。もちろん一定数の根強い支持があるのを踏まえた上である。そういった意味ではメディアの取り上げ方がその大部分を担っており逆にメディアに依存するしかないのも事実ではないだろうか。

 

「調べる」という動作を嫌う人間はもちろんメディアに乗っかり流されるまま取り上げられた音楽を好みSNSで影響力を持った楽曲を支持するであろう。それもまた趣味のあり方なので否定はできない。しかし、音楽と向き合う人間の大多数がそれであったとしたならば日の目を見ない下地な音楽は一生そのままである。

 

「推しは推せる時に推せ」

 

という誰かの金言と通ずるところがあるが好きな音楽を、アーティストを世間に知らしめたいのであればそれなりの応援をする努力をしなければいけない。メディアは注目されたものを取り上げるし伸び代のあるものを取り上げる。メディアのやり方に媚を売るのが正しいのであろうと思う。

 

インディーズ界隈でよく言われる「有名になるのは悲しい」という言葉。

わからんでもない。自分の子供を社会に送り出す親の気分と酷似するのであろう。距離感が離れるのが寂しいのであろう。ただよく考えて欲しい。創作活動には金がかかる。金は客が生み出す。金を集めるためには多くの注目が必要である。長く好きなものを嗜みたいのであれば世に送り出す覚悟をリスナー側がするのも必要なのではないだろうか。

 

注目されすぎると活動しなくなったり事務所に淘汰される可能性は言い出すとキリがないのでこの際は黙っておこう。

 

「影響力はメディアに依存する」の旨を前述したがやはり時代は機械でありネットである。幸いな事に誰でもメディアになることができる。いわゆるソーシャルメディアである。なれるなららろう。自分の発信で誰かが新しい音楽を見つけられればそれは嬉しい事である。そう思いながらこの記事を書いたまでである。

 

ではまた。